過日台中図書館で台湾人生の上映会が行われましたが、その中のシーンに同窓会の席上
母校の校歌を高らかに合唱している場面がありました。

公学校(台湾人が通っていた小学校)の同窓会が毎年開かれていて80歳を過ぎたラホヤー
(お年寄り)の方たちが20人以上集まって日本語の校歌を歌っていたのです。この映画を
鑑賞していた若い人たちは一様にびっくりしていました。
皆さんは自分の母校の校歌をまだ覚えていますか。

1945年以前台湾で少年少女時代を過ごした人たちの同窓会の結束は強く、戦後の教育を受
けた人たちには太刀打ちできないものがあります。

日本統治時代に台中第一高女(現:台中高女)を卒業または在籍した人たちの同窓会で
「せんだん」というタイトルで会誌を作っていますが、1989年母校創立70周年記念誌「せ
んだん」23号の中に母校の校歌の作詞、作曲者を探し求めたエビソードを記した文章が
掲載されておりましたので今日のメルマガではこれを紹介したいと思います。

●校歌について                      旧職員 佐藤豊子

同窓会の皆様お久しゅうございます。
台中高女へ私がはじめて勤めたのは昭和5年(1930)の12月末でした。校長は篠崎正先生
でした。翌6年3月7回生の卒業式に私は校歌を聞きましたが何て素晴らしい校歌なんだ
ろうと思いました。

去年(1988)の8月16日に三原様の訪問を受けて「先生校歌の作者を御存じですか。」と
尋ねられ、「知らない。」と答えた私でした。
私はどうしても作者を調べようと決心し、まず稲垣先生に尋ねましたが、やはり御存じあ
りませんでした。先生は2回生ですから1回生から4回生までの中から名簿と記憶をたよ
りに10名を選んでハガキで尋ねました。皆返事を下さいましたが、知らない方が多く2回
生の桜井様と西様の「作詞国語の岩本先生作曲音楽の西坂先生と思っていました。」との
ハガキが私を喜ばせました。けれど半信半疑ながら三原様に知らせました。
何日間も返事がなくて暫くしてから「校歌のこと諦めました。」と電話を受けて、どうし
ようかと迷ってしまいました。こんな所へ救いの神とも思える便りが西様から参りました。

内容は「6回生の奥村様が2年の時御大典の記念事業の一環として校歌の発表があり譜面を
もらった記憶があります。作詞作曲は東京の方に依頼されたようです。」でした。
私はすぐ奥村様にお電話しましたが記憶はあるが内容は覚えていないということでした。
そこで私は6回生が2年なら5回生は3年7回生は1年のはずと考え各回5人ずつ計15名に
例の名簿と記憶を辿ってハガキを出しました。今度も又次々と返事が来ましたが、
10月中頃7回生の松浦十代様から「校歌見つかりました。電話では漢字の説明が難しいので
一筆書きました。作詞葛浦幽作曲梁田貞」というハガキが届きました。
この時の感激は忘れられません。

私は葛原しげるが童謡作家である事をよく知っていましたが梁田貞はよく知らなかったので、
貞はサダではないだろうと思い、本当のお名前を知りたいと思いましたが、それのみでなく
お二方の人となりやお仕事などについても深く知りたいと思い、その事を旧友N様に依頼し
ました。N様は私が東京でお世話になった先生の長男で、東京帝大卒業後は大学教授の職を
長く勤められ現在は読書俳句など楽しんでいる方です。快く引き受けて下さいましたが、
実は彼は両先生とご縁の深い方でした。お手紙によりますと、府立5中で梁田先生に音楽を
習った。先生はライオンという綽名があり長髪に外人のような風ぼう情熱的にピアノを弾く
時はまるでベートーベンのようだったそうです。五中では一中をほめ、授業中よく外国の
歌を聞かせてもらいまた生徒に原語で外国の歌を教えられ、先生は学校の人気者だったそう
です。

葛原先生は直接は知らなかったけれど先生が豊島師範に勤められた時N様の父上は付属小学
校の主事をしておられたそうです。先生のお嬢様は、彼の奥様と女学校で同級生で親友だっ
たそうです。
N様はすぐ図書館で調べて下さいました。その概略を次に記します。


葛原しげる {1886~1961}

作詞家 童謡作家 75歳歿
広島県出身、東京高等師範学校英文科卒業、女子音楽学校(日本音楽学校)豊島
師範学校、跡見高等女学校など数校に教鞭をとりながら大正時代の童謡運動の流れに沿って
童謡450余を作詞。童謡集「子猫の鈴」「白兎と木馬」しげる童謡集などの著がある。
梁田貞(ただし) {1885~1959}
作曲家 札幌に生る 1912年東京音楽学校卒業 同年から東京府立一中、府立五中、
成城小学校、玉川学園等多くの学校で音楽を教えながら多くの作曲をした。
最も有名なのは「城ケ島の雨」「隅田川」などである。
昭和34年(1959)5月9日歿。

私はこれをコピーして協力して下さった方々へ送りました。皆喜んで校歌がこのような立派
な方のお作とも知らなかったのが恥ずかしいとか誇りを感じる等と言っておられました。
ちなみに校歌は昭和3年11月10日御大典の日に生まれました。(1928)
八回生が1年七回生が2年生六回生が3年生五回生が4年生であったと思われます。
なお正式に校歌を制定されたのは昭和5年11月10日(1930)で学校の沿革にも書いてあります。
全国中には私も知っていたという方が多数あることと思います。各地各所で行われる同窓会
クラス会等では皆様今までより一層元気に声高らかに「咲くやせんだん」を歌いましょうね。
皆様おすこやかに。


(補足説明)御大典について
大正・昭和両天皇の御大典は、それぞれ大正4(1915)年11月10日と昭和3(1928)年11月10日に
京都御所で行われました。天皇の即位儀礼には、前天皇の死後ただちに後継者が即位する
「践祚(せんそ)」、天皇即位を国の内外に宣言する「即位式」、新天皇がその年の新穀を
神と共食する「大嘗祭(だいじょうさい)」の3つの異なる儀礼が含まれていましたが、
明治42(1909)年の登極令の制定により、即位式と大嘗祭は、前天皇の喪が明けた年の秋冬の
間に続けて行われることに決められました。このふたつの儀礼をセットにしたのが「御大典」
であり、国家的なイベントとして盛大に行われました。

台中第一高女の校歌
一、咲くや栴檀(せんだん)紫の
色も床しきその花は
優しかれとて 微笑むや
日に新たなる 日の本の
乙女子(おとめご)我等の 幸よ栄誉(はえ)よ
二、高く雄々しき新高は
若き我らの姿とて
健やかなれとて聳ゆるや
日に新たなる 日の本の
乙女子我等の 幸よ栄誉よ
三、岸の柳の影写し
ゆたに自ら流れゆく
啓示(さとし)も深き緑川
日に新たなる 日の本の
乙女子我等の 幸よ栄誉よ
四、心涼しき濃緑(こみどり)の
かげに憩えば風清く
ひきしまれとぞ ささやくよ
日に新たなる 日の本の
乙女子我等の 幸よ栄誉

●興味のある方下記のHPにて台湾の校歌が聴けます。
古い記憶のメロディ http://www.geocities.jp/abm168/ 
 

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