台湾に関心のあるひとなら北白川宮能久親王(きたしらかわんみやよしひさしん
のう)の名前と
この人が台湾の平定のために最初に軍隊を連れてやってきたということを御存じ
の方も多いかと
思います。
実は戦前台湾には各地に神社が建立されましたが、台湾神社には北白川宮能久親
王が祀ってあり
ました。このことは、当時の「修身」という教科書にも載っているのです。小学
生を対象にして
いるので記述は平易な文章で書かれてありました。その個所を抜粋して紹介しま
す。

● 台湾神社
台北の北のほうに剣潭山という山があって、その山の中ほどに台湾神社という御
宮があります。
下には基隆川が流れているし、向こうには台北の市街が一目に見えるし、実にな
んともいわれ
ない景色のよい結構な所です。皆さんはどういう神様を此所にお祀りしてあるか
、知ってますか。
太古我が国に大そう手柄のあった三柱の神様と、台湾が今日のように開けた基を
お立てて下さい
ました北白川宮能久親王様を合せて、お祀り申してあるのです。
三柱の神様のことはもっと上の級になってからお話することにして、今日は北白
川宮能久親王様
のお話をしましょう。

能久親王様のような尊いお身分の方が、どうして台湾へおいでになったかという
に、もと台湾には
方々に悪いものがいて、お上のいうことをきかず、人を殺したり、物を取ったり
したものですから、
それを鎮めるためにおいでになさいましたのです。
その頃の台湾は汽車もなく、郵便もなく、水道もなく、医院もなく、ただ色々の
悪い病気がはやる
ばかりでした。こういう所へおいでになって、いくさをなさるのですから、親王
様の御難儀は容易
なことではありません。とうとう御病気におかかりになさいましたが、それでも
親王様は、おそば
の人々の心配しておとめ申すのをおきき入れなさらないで、兵をお進なさいまし
た。あまりに御無
理をなさいましたので、御病気がだんだん重くなられて、とうとうおかくれにな
りました。
けれどもご親王様のおかげでわるい者どもはすっかりなくなってしまいました。

わるい者がなくなってから、台湾はだんだん開けてきて、今のように便利になり
、病気もすっかり
なくなりました。今日皆さんが安心して、楽しく暮らして行かれるのはいうまで
もなく、天皇陛下
のおかげでございますが、その本をいえば、能久親王様が御身を棄て、台湾の為
に骨を折って下さ
ったからです。

皆さん、これほどまでに台湾の為にお尽くし下さいました親王様には、おかくれ
なさった後も、
神様におなりになされて、いつまでもこの島を護っていて下さいます。まことに
ありがたいでは
ありませんか。



 前回紹介した同窓会文集(第4号 昭和61年6月発刊)の中に、篠原正巳先生
(故人)は能久
親王の数奇な運命について下記のように寄稿していました。

●北白川宮能久親王の墓誌
                                   篠
原正巳

北白川宮能久親王の葬儀は、明治38年11月15日国葬をもって執り行われ、柩は豊
島岡に葬られた。
親王の事跡を記した墓誌銘(漢文)は、文学博士川田剛の撰文によるものである
。私はたまたま、
近衛師団台湾征討史(松本正純著、明治29年5月発行)の巻末に収録されていた
この墓誌を読み、
親王の生涯が波乱に満ちたものであったことを知った。紙幅の制限もあるので、
今墓誌の中から、
親王の生い立ちと軍歴に関する事項について次にご紹介する。

親王は弘化4年2月16日、伏見宮邦家親王の第9子として出生、満宮と称した。翌
年仁孝天皇の
養子となり、青蓮院宮法嗣に充てられたが、実に嘉永5年梶井宮法嗣となった。
転じて安政5年、
東下して輪王寺宮付弟となり、この時親王能久の名を賜った。得度するに及び法
名を公現と称した。
明治元年、会津、庄内、仙台などの東国諸蕃は親王を擁立し、その令旨をもって
奥羽列蕃を糾合し、
兵を挙げた。戌申戦役である。役後、親王は責を受け屏居を命じられた。翌年、
若年の故をもって
許され、伏見宮家に復帰したが、それまでの位記を失い、年三百石を給された。
明治3年旨を受け
て渡欧、ドイツに留学した。(新生に道が拓かれることを願う周囲の配慮かと思
う)留学中の明治
5年、宮の称号を許され、北白川宮智成親王の後を継いだ。
同7年陸軍少佐に任じられ、同10年、7年間に亘る留学を終えて帰国した。11年
近衛局出仕、12年
陸軍中佐、13年参謀本部出仕、14年陸軍大佐となる。15年戸山学校次長、ついで
教頭となる。17年
陸軍少将、18年歩兵第一旅団長に補せられ、25年第四師団長に転じた。28年1月
近衛師団長に任じ
られ、4月師団を率い金州に赴いたが、一戦も交えぬうちに日清戦争は終結した

ついで近衛師団に台湾鎭定の命が下り、旅順から台湾に向かい、5月29日の澳底
上陸となった。
以後のことのついては広く知られるとおりである。

 本来なら門跡を嗣ぐ法親王として、親王の一生は静穏なものであったと思う。
はからずも、明治
維新の動乱の渦中に巻き込まれて仏門を去り、軍人としての道を進むことになっ
た。またそのため、
台湾の動乱の戦場に果てた、親王49年の生涯は悲運というほかはない。

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