日中衝突で台湾はどちらへ向かうのか
尖閣諸島は日中の間だけでなく、日台の間でも重要なキーワードとなっている。
大陸傾斜が続く台湾で、この事件はどう捉えられたか

(激論ムック 2010年11月号より転載)


     「台湾の声」編集長 林建良(りんけんりょう)

● 味方を敵にする馬英九政権

2010年9月7日に起こった中国漁船と日本の海上保安庁巡視艇の衝突事件をめぐって、台湾各界はしばらく静観していた。馬英九政権は最初「尖閣問題は麻疹のようなものだ」と腫れ物を触るような姿勢だったが、国民党内部の親中派の圧力に屈して、尖閣諸島に抗議していく「中華保釣協会」のメンバー二人を乗せた船の護衛のため、十二隻の海上警備艇を派遣して日本の海上保安庁の巡視艇と尖閣諸島海域で対峙させた。

これはまさに中国の虎の威を借りた身の程知らず愚かな行動であった。これについて台湾に駐在する日本のマスコミの記者が、政府の記者会見の場で厳しく追及した。「尖閣諸島は台湾の領土だと主張するなら、なぜ中国漁船を尖閣海域から駆逐しないのか」と質問し、あるいは「これならいっそ、台湾は中国に併呑されたらよい」と吐き捨てていた。

台湾の最大紙である自由時報も社説で「敵である中国と同調して味方である日本に挑発とは」とし、馬英九政権は「錯乱状態に陥っている」と厳しく批判した。ところがこれらの批判に対し馬政権はなんと「中国とは中華民国であり、尖閣諸島は中国の領土であることは我が政府の立場とは何の矛盾もない」との時代錯誤的な声明を出した。

これはつまり、尖閣諸島は台湾の一部で台湾は中国の一部だから、尖閣諸島も中国の領土であるという無頼漢論法だ。

●「尖閣諸島は日本の領土だ」とあらためて表明する李登輝氏

この中国一辺倒の姿勢を親中派の代表格である中国時報は連日中国と連携して日本に対抗すべきだとの論文を掲載して、馬政権を援護射撃した。それに対し、自由時報は、尖閣諸島を中華民国の領土にする法的根拠はなく、尖閣諸島のために台湾そのものを虎視眈々している中国と連携をとるのは本末転倒としかいえないと主張、中華民国にはその所有を主張する権利はないとの見方をはっきり示した。

さらに李登輝元総統も「尖閣諸島は日本の領土だ」との従来からの主張を、10月18日の高雄市での講演であらためて表明した。彼が「おネエちゃんがきれいだからといって、私の妻だと言う人間がどこにいるのだ」などと、中国や台湾が領有権を主張していることを皮肉った。

●最初から政治の道具にされた尖閣問題

しかし、尖閣問題はやはり台湾と日本の間に刺さったとげのようなものである。そもそも日本が尖閣諸島を領有した1895年から1970年までは尖閣問題は存在しなかった。それまでの台湾政府が作製した地図と中学で使っていた教科書も尖閣諸島を日本の領土にしていた。尖閣諸島周辺での海底資源埋蔵の可能性が発表されてから、「それは俺のものだ(中国のものだ)」と言い出したのが、当時台湾を占領していた中国人の蒋介石政権であった。

そしてそれと平行して「保釣運動」(釣魚台防衛運動)が海外の中国人を中心に展開した。1972年の日中国交樹立、日華断交を受け、蒋介石政権は日本への抗議として日本との航空路線を断絶し、日本製品の不買運動を呼びかけたが、それと平行して海外中国人を中心とした勢力は「保釣運動」を台湾で大々的に宣伝した。

つまり蒋介石は「保釣運動」を日本への報復の一つの手段として利用したのだ。当時中学生であった筆者も毎日全校集会で「拒用日貨」(日本製品拒否)、「打倒日本」(日本を打倒せよ)とのシュプレヒコールを、校長先生の先導の下で叫んでいた。それ以外、あらゆる授業で釣魚台は「我が中華民国の領土だ」と聞かされた。

当時の独裁政権下での徹底したこの洗脳政策に筆者はなんの違和感もなかった。それどころか、手につけていた日本製の腕時計を「こんなものをつけられるか」と投げ捨てたほどであった。戒厳令を敷かれた当時の台湾の教育は中国式一色で若者が反日教育を愛国教育として教育され、見たこともない日本を憎むようになった。これは今の中国とそっくりな状況だった。

それから一年三ヶ月後、日台間の航空路線が回復し、日本製品の不買運動も沈静化に向かった。しかし、もはや尖閣問題は一部の「保釣運動」だけが騒ぐ問題ではなくなった。

一般国民の間で「釣魚台は台湾のものだ」という意識に深く植え付けられたからだ。無理もない。戦後の台湾では台湾史を研究することも勉強することも禁じられ、特に日本にも関わる歴史はタブーとされた。物事を深く考えない台湾人は尖閣諸島の歴史経緯に詳しいはずもなく、簡単に政府の言い分に納得してしまった。

●「台湾には情を」と呼びかける水野孝吉氏

さらに歴史問題とは別に台湾漁民の「伝統漁場」という人道的観点から捉える向きもある。日本は尖閣諸島と台湾を領有した1895年から1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約が発効して台湾を放棄するまでの間、台湾人は日本国民であった。そして戦後も台湾の漁民は1972年にアメリカが日本に沖縄を返還するまで、尖閣諸島近辺で自由に操業していた。つまり、尖閣騒ぎが起こるまで、尖閣諸島の近海は台湾漁民の漁場の一部であったのだ。中国人が起こした尖閣問題が、いまだに日台間に刺さったとげとして残る原因の一部は、その漁民の生計に関わる人道的な観点によるものだと言える。

その実情を踏まえ、尖閣で灯台を建てた日本青年社常任理事の水野孝吉氏がミニコミ誌「ヴェクトル21」に「尖閣諸島に灯台を建てた一人として」と題して「台湾には情を」と呼びかけた。

彼は「中国には法と理の立場で毅然たる態度をとるべきだが、かつて日本国民であった台湾人には情を持って接するべきのではないか。そのためには、台湾に尖閣諸島は日本の領土であるとの前提で、漁業権問題交渉を通じて台湾の漁民に操業の許可を与えることは望ましい。」と、台湾と中国とは異なった姿勢で臨むべきだと強調し、さらに「その小さな一歩の譲歩が、実は台湾と日本の大きな安全保障に繋がるのである。」と結んだ。

この呼びかけは日本に対する深い愛情から生まれたものだと筆者は感じた。なぜならこれは台湾における中国傾斜の現状を危惧し、台湾を日本へ引っ張る重要な一歩であるからである。

実は水野氏の危惧はもっと深刻なところにある。それは今回の尖閣問題は台湾・中国の連合体対日本への様相に一転したことだ。

今までの尖閣問題に対し台湾政府は常に中国と一線画す立場で日本と交渉していた。台湾・中国連合体対日本ということを提唱しているのは親中派代表格である宋楚瑜親民党主席で、彼は中国と連携して尖閣諸島を奪還しようと公然に呼びかけている。2010年8月18日、産経新聞の独占インタビューで、尖閣諸島に関する主権帰属の問題を棚上げにし、漁業権問題を解決したいと発言したばかりの馬英九は、こうした親中派の強硬姿勢に押され、結果として中国と連携する最悪の形となった。

●多くの台湾人は日本に期待している

台湾人の多くはそれぞれ尖閣に対する異なった意見を持ちながらも、日本には毅然とした姿勢で中国に臨むことを期待していた。だから今回の尖閣問題の発生当初、日本政府の姿勢に多くの台湾人が勇気付けられている。

しかし、その後中国の恫喝にあっさりと屈した日本の無様な対応に、大半の台湾人ががっかりした。これでは、麻生元首相が提唱していた「自由と繁栄の弧」という価値観同盟にしても、所詮は実現不可能であり、絵に描いた餅に過ぎないと感じたからであった。

これほどの失政に対して岡田民主党幹事長は「中国の方が失うものが多かった」とのコメントを見せたが、台湾人には負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。

今回の危機から日本も台湾も学ぶべきものが沢山あるはずだ。その最たるものは、自国の領土を自国で守る意思を示すだけでは足らず、実際に守る行動に移せなければ意味がないということであろう。その行動とは今回でいえば、尖閣に自衛隊を駐屯させることだ。その行動こそが台湾人を励まし、台湾の中国傾斜の流れを止める原動力になると筆者は信じてやまない。

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