湯浅博

 その日はまだ、夏の名残の残暑があって、街路樹の影を踏みながらいつものビルに向かった。銀座の並木通りは、世界でも屈指のおしゃれな通りかもしれない。その通りのはずれ、1丁目に「並木書房」はあった。

酒屋の脇を抜け、動けば「ギー、ガタン」と鳴くエレベーターに乗った。代表取締役会長、奈須田敬さんの部屋は8階にある。

「会長たってこっちは本屋のおやじでね、好きでやってんで」浅草っ子が啖呵(たんか)を切った。フーテンの寅さんは江戸川辺りで産湯をつかったが、「こちらは隅田川。まあ下町の本家筋ってえとこだね」と屈託がない。

 あれは3年前の初秋のこと。宰相、吉田茂の軍事顧問だった辰巳栄一陸軍中将 のことを調べていた頃だ。奈須田さん主宰の安全保障研究会で夜に訪ねても、昼間の訪問は初めてだった。「連載するとはね、そりゃあいい。誰かが辰巳さんを書いてくれないかと考えていたんだ」齢90になろうかという奈須田翁は、よほど辰巳中将に親近感を抱いていたのだろう。身内のことのように喜んでいた。実はこの8階に来れば、旧軍の文書や関係した人物の本があるだろうと考えていた。壁面がすべて本棚で、新聞の切り抜きから古い雑誌までが雑然と並んでいる。奈須田さんの並木書房が一時『軍事史学』という専門誌を発行していた関係で、陸軍将校OB会の「偕行社」会長の辰巳を知ったのだという。

 辰巳は在ロンドンの陸軍駐在武官と して三国同盟に異議を唱え、対米戦争の回避に動いた英米派だった。戦後は自衛隊の前身である警察予備隊創設を主導し、吉田とともに内閣官房調査室を日本版CIA(中央情報局)に拡充しようとした。しぶる吉田に、憲法改正を直言したのも辰巳である。

実は奈須田さんと話していると、安全保障分野の幅広い知識の中にどこか辰巳と共通するにおいを感じることがあった。おそらく英国首相のチャーチルを愛し、左右の全体主義を嫌う愛国的なリアリストのそれだ。

 奈須田さんの反骨は筋金入りだった。昭和16年12月8日の正午、東条英機首相の対米戦に向けた大詔渙発の表明を聞いて涙が頬を伝った。だが同時に、政府の統制経済がソ連計画経済とナチス国家 社会主義を足して2で割るやり方が許せなかった。

 出征まぎわに、批判論文をまとめ、ガリ版刷りの製本に『醜の御楯』というタイトルをつけた。これを東条首相や岸信介商工相らに送りつけた。だが、出征先の台湾で肺病にかかり内地に転送された。奈須田酒店は廃業に追い込まれ「半ばやけくそ」で、今度は時局批判を小磯国昭首相らに送った。


 これが「日本は必ず負ける」という内容だから官憲を挑発しているようなものだ。九段の東京憲兵隊本部地下牢にほうり込まれた。のちの法務総裁、殖田俊吉と同室だし、隣室にはのちの首相、吉田茂が入ってきた。

 戦後は政治週刊誌『日本週報』の編集長になり、妙な因果を感じたものだ。吉田と自分を検挙した元東部憲兵司令官の大谷敬二郎を説得し、「吉田茂逮捕の真相」を2度にわたり連載させたのだ。昭和49年に月刊ミニコミ誌『ざっくばらん』を創刊すると、多くの学者、評論家がエールを送った。

 杏林大学名誉教授の田久保忠衛さんは、在野の経済評論家、高橋亀吉になぞらえた。その奈須田さんが昨年春、40年にわたって主筆をつ とめた『ざっく-』を「老躯(ろうく)任に堪えず」と休刊にした。

 1年半後の7月28日、奈須田さんはついに召された。享年92。手元には奈須田さんから聞き書きをしようとインタビューした
1回目だけが残った。(ゆあさ ひろし)

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