三宅教子さんの歌集『光を恋ひて』の出版!  新高山 百合(台湾歌壇同人)

 昨年3月の東日本大震災に際し、「台湾歌壇」の人々が、日本を励ましたいと3月に開い
た歌会(かかい)に献詠の短歌を持ち寄り、募金までしていただいていたことを本誌でお
伝えしたところ、多くの反響があった。

 「台湾歌壇」の代表は蔡焜燦(さい・こんさん)先生で、事務局長は日本から台湾に嫁
がれた黄教子(こう・のりこ 旧姓:三宅)さんだ。三宅さんには、本会が訪台するたび
にお世話になっているが、このたび初の歌集『光を恋ひて』を台湾で出版された。実に素
晴らしい歌集だ。心から祝意を表したい。

 歌壇同人の新高山百合(にいたかやま・ゆり)さんがブログ「台湾魂と日本精神」でこ
の歌集について、蔡焜燦代表の序文の全文を紹介しつつ、歌集の出版を心の底から喜んで
いる様子が目に浮かぶような文章でつづっている。下記に紹介したい。

 ブログでは『光を恋ひて』の表紙(題字は「不二歌道会」の福永眞由美さん揮毫、蘭の
絵は許文龍氏筆)や4月の歌会で『光を恋ひて』を手にする三宅さんや本を紹介する蔡代表
などの写真も掲載されている。

 ちなみに、昨年8月に本誌で「台湾歌壇」第15集の紹介をしたおり、「現在、台北歌会と
南部歌会があり、同人は100人ほどにもなっているという。毎月第4日曜日に月例歌会(か
かい)を開いており、6月は45人、7月は41人が集まり、20代や30代の方も参加する傾向に
あり、平均年齢は若くなっているそうだ」と紹介したが、最近は日本人の参加者も少なく
ない。本会会員も数人参加している。

◆「台湾歌壇」第15集 巻頭の言 蔡 焜燦[2011/8/22]
  http://melma.com/backnumber_100557_5268149/

◆日本の復興と繁栄を祈る「台湾歌壇」の人々[2011/4/23]
  http://melma.com/backnumber_100557_5166038/

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4月例會でのグッドニュース ─ 三宅教子さんの歌集『光を恋ひて』の出版!
【台湾魂と日本精神:2012年5月2日】
http://twnyamayuri.blog76.fc2.com/blog-entry-68.html
*ブログではたくさんの写真を掲載!

 今年1月に台湾歌壇の黄教子事務局長(以下三宅教子さんと称す)が、4月に個人歌集を
出版すると知ったとき、とても嬉しくまた期待に心躍りました。というのは三宅さんは私
たちの台湾歌壇にとって、歌壇の皆さんの心の支えであり人生を相談できる大黒柱である
だけでなく、その優美な短歌作品はいつも私たちの心を打ち、優しく善良で謙虚でありな
がら毅然とした正義感に富んだ性格は、私たちの心の中の「大和撫子」そのものだからで
す!

 台湾歌壇にとってこのように大切な日本人女性、彼女と台湾歌壇はどのようにして縁が
結ばれたのでしょうか? ここに彼女をインタビューした詳しい紹介があります。

◆台湾にある日本を伝えたい─台湾にいきる日本人たち[2006-01-10]
 http://www.tit.com.tw/page_j/food1_1.php?id=313&key=10&tit

 私が三宅さんに初めて出会ったのは、2004年「友愛会」の例会で、あの頃は陳絢暉会長
の時代で、当時三宅さんは日本語の文章を朗読して、その独特な優美な声が印象深く、そ
の時に彼女が「台湾中央放送局」で日本語放送をしているアナウンサーだと知りました。
その時には語り合うことはなかったのですが、その後三宅さんと今のように深くお付き合
いすることになるとは思いもよらなかったのです。ことに台湾歌壇に入会してからは、い
ろんな面でお世話になり、短歌のご指導を受けるほかにも、彼女の考え方や人格に深く影
響を受けています。

 待ちに待った4月が来て、三宅さんから「歌集が出来上がったので、皆様には22日の歌会
に配りますが、あなたには先に送ります」とメールが来ました。13日に届き、急いで包み
を開けてみると、淡黄色の和紙に「光を恋ひて」の題と一株の蘭の絵がとても調和して、
風雅な表紙になっています!

 第一ページを開くと、蔡焜燦代表の序文が飛び込んできました。

≪台湾歌壇の重鎮、台湾歌壇の事務局長としてここ数年来歌壇を支えてきた黄教子(本名
三宅教子)さんが歌集を出版するに当り序文を依頼された。

 二つ返事で引き受けたが、さて歌歴の先輩であり、和歌を愛する典型的な家庭に育てら
れ、幼少の頃には朝、明治天皇御製を朗詠した後に朝食に入る、且つ平成十一年の「宮中
歌会始」の御題「時」に詠進され、入選(十人)こそ果たせなかったが、佳作十五人の一
人に選ばれた方の歌集の序文をどうしたものかと、約一ヶ月迷い乍らやっと筆を取り上げ
た。因みに三宅さんの詠進された作品は、

  楽しかる集ひの時の疾く過ぎてなべては夢のごときたそがれ

 である。

 三宅さんから送ってきた歌集の草稿「光を恋ひて」の詠草を読むほどに「流石!」と感
嘆するばかりである。年代毎に作品をまとめているので、その時代の事を思い浮べ乍ら読
んで行くと、人を愛し、自然を愛し、美を愛し、祖国日本を愛し、夫君及び子供達の祖国
台湾を愛し、そして光を恋しながら調べの美しい作品が続いている。

 あえて取り上げなくても、読者諸氏がこの珠玉をちりばめたような作品を吟味鑑賞され
たほうが三宅さんの作品のよさが更に身に沁みるであろう。作品の中で、特に私の心を打
った一首を書き添えて序文と致す。

  わが胸を打ちてしめらふ春の雨せつなきほどに桜を見たし

                             台湾歌壇代表  蔡焜燦≫

 蔡代表の序文は実に簡潔で力強い文です! 目次を見ると、三宅さんの作品は年代別に
紹介されていて、1977年から2012年までの35年にわたる歳月の「思い」がすべて短歌にな
って現されており、賛嘆と羨慕の至りです。一ページずつゆっくり読んでいくのがもどか
しくて、いきなり歌集のあとがきを読んで、表紙の「光を恋ひて」の題字が、「不二歌道
会」の福永眞由美先生の揮毫であり、一株の蘭の絵は、台湾で尊敬を集めておられる「奇
美実業」の創設者である許文龍先生が描かれたことを知りました! 許文龍先生までこう
してお力添えなさっておられるとは「さすが台湾歌壇の黄教子先輩!」と感じ入りまし
た。本当に晴れがましく嬉しい限りです。

 4月22日台湾歌壇の月例歌会のときに、4月の詠草を渡す時に三宅さんの「光を恋ひて」
の歌集を会員の皆様にお配りしました。みなさんは三宅さんが歌集を出版されたと知っ
て、賛嘆と喜びの笑顔になられました。

 主役が現れると、先輩達は次々と彼女にお祝いの言葉をかけ、一緒に写真をとりまし
た。

 食事の時間を利用して、蔡焜燦代表が三宅さんが歌集を上梓されたことを話されまし
た。

 4月の詠草でとても感動した歌があります。それは、

○ 台湾と日本の「光」ひた求め台湾に生くるわが妹よ

 三宅さんの二番目のお兄さん三宅章文さんの歌で、台湾歌壇の会員でもあります。この
方の歌には、日本と台湾を愛する短歌が多いのですが、この歌にはお兄さんが妹を思う心
と兄としての喜びが伝わってきます。

 三宅さんの今月の詠草は、

○ 一冊の歌集残ればそれでよし後は余生ぞ無為に生きたし

 この歌は三人の人が選びました。その中で劉心心先輩は、歌評の時に「これは三宅さん
の作品だと思うのですが、ご出版おめでとうございます。でもこんな素晴らしい歌集が一
冊だけでいいなんてもったいないです。この後も引き続き第二冊目、第三冊目と発行して
くださいよ」とおっしゃって皆さんから拍手を浴びましたが、実に皆さんの心の声だと思
いました。

 皆さんの期待に対して、三宅さんの考えを聞いてみました。

≪第一歌集を出すのに三十数年かかりました。5、6年前から纏めようと整理し始めたので
すが、何かと忙しくて途中でストップしたりして遅れてしまいました。最近しきりに気に
なり始めて、台湾で生活するようになってからの歌を纏める事で今までの自分を省みたか
ったことと、日本語世代の先輩方に読んで頂きたいという気持も強くありました。

 初めのうちは異郷で心細く、ホームシックになったり、不安な思いで過ごしたりして、
私は一人の弱い人間ですから波のまにまに浮き沈みしながら過ごしてきました。でもその
時時に短歌があったことで、どれだけ励まされてきたかわかりません。それがなかった
ら、寂しさや不安におぼれてしまったかもしれませんが、短歌が心の支えになってくれま
した。

 子供達の幼かった頃の歌もあり、やはりその時にしか詠めないものがあるわけで、短歌
が残ったことで、その当時の心境が鮮明に蘇ってきます。写真や日記とはまた異なる感慨
があり、短歌を続けて来てよかったなと思うのです。難しいことをよむ必要はなく、その
時時に心の底から感じた事や感動した事、喜怒哀楽を素直に表現していけばいいのだと思
います。

 私は平凡な人間ですから、一冊の歌集が残ればそれでいいと思っています。しかも序文
を蔡焜燦代表にいただき、表紙の絵を許文龍先生にいただき、題字は私が少女の頃から姉
のようにお慕いしている福永眞由美様にいただいたのですから、私にとっては一生涯で一
番大切な宝物になりました。これ以上の幸せはありません。これからを「無為」に過ごし
たいというのは、これからはできるだけ自然な心で生活したい、自然に添った生き方をし
たいと思うのです。その中で短歌が生まれればそれが一番嬉しいです。≫

 彼女の話を聞いて、私は短歌の力というものを更に深めたような気がしました。また、
三宅さんの歌集のあとがきに書かれている文章を読んで、私は目頭が熱くなりました。

≪祖国を離れて「あなたは日本人ですか?」と問われて、「はい、私は日本人です」と答
えているうちに、自分に「日本人です」と言える何があるというだろうかと、それはそれ
は心細い思いにとらわれてしまいました。(中略) 台湾の日本語世代の方々と一つの時代
を共にすることができ、どれだけ多くのことを教えていただいているかを思うと、感謝で
いっぱいです。台湾歌壇の皆様と共に短歌を研鑽し合うことのできる環境に生かしていた
だいていることを神様に感謝しつつ、台湾に日本の伝統的な短歌がこれからも生き続けら
れるように心より願っております。≫

 台湾歌壇の日本語世代の方々にとって、三宅さんは何物にも替え難い人です。歌壇の事
務上での様々な出来事をその肩に担っておられ、また先輩達が彼女を頼り大切になさる様
子を見て、私は常々、三宅さんはきっと神様が台湾の苦難の時代を嘗め尽くしてきた日本
語世代の方々に使わされた人だと思うのです。後輩の私はこのような大和撫子の女性が台
湾へ来られて、先輩方の心を和めてくださる事を非常に感謝しています。でも、彼女が台
湾へ来られてから、親を思い、祖国を思う短歌を読んでゆくと、何だか心が疼いてくるよ
うで・・・。

  愚痴ひとつ言ふにはあらねど母の瞳に湛へをりたり深き寂しさ

  別れとは知らではしやぐ幼な子は祖父母に向かひてバイバイと手を振る

  永遠の別れにあらず海を隔て遠く住むといふのみのこと

  われの身のことは思はず今はただ老いたる父母の嘆きぞ悲しき

  笑顔をば忘れず夫に尽くせよと歌を寄せたりたらちぬの母

  病みたまふ母を案じて今宵眠れず夜空に澄める星を見つむる

  翼あらば飛びてゆきたしこの夜を母の枕辺に添ひてをりたし

  母の漬けし梅干し食めばほろほろと涙こみあげふるさと思ほゆ

  父母はさびしくあらむと語るごと文書き続く日々のことども

  ふるさとの国にやさしき兄等ゐて父母守ることのうれしき

  よしやわが子らは異国に育つとも故郷の国語らざらめや

  親族の訃を聞きたる日ひつそりと異郷の神に線香を上ぐ

  日本家屋改造したる茶坊にて異郷に祖国の詩歌を語る

 「光を恋ひて」は年代順に35に分かれており、今第7まで読んだところです。三宅さんは
「私の歌は日常生活の中で感じたものがほとんどです」とおっしゃいましたが、確かに三
宅さんが台湾の社会を描かれる短歌は、私も早期に一緒に経験した事柄を髣髴とさせてく
れます。また彼女はこの歌集を出された後の人生を無理せずに自然に過ごしたいそうです
が、その洒脱な心境を羨ましく思うと同時にやや寂しいとも思うのです・・・。

 このように貴重な優れた歌集の作品を、機会がありましたらこのブログで是非ご紹介し
たいと思います。とにかくこの度の歌集ご発行、本当におめでとうございます!

 三宅さんが「台湾国際放送」で番組製作しておられた「フォルモサ便り」の一部は台湾
国際放送で今も聞くことができます。

「台湾国際放送」 http://japanese.rti.org.tw
「フォルモサ便り」 http://japanese.rti.org.tw/Japanese/formosa/index2007.htm

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2>> 台湾歌壇と呉建堂  蔡 焜燦(台湾歌壇代表)

 下記に紹介するのは、「台湾歌壇」の蔡焜燦代表が昨夏、ある本に寄稿されるつもりで
書き綴られた台湾歌壇に関する一文だ。結局、その本には別の原稿を提出されたので陽の
目を見なくなった。しかし、三宅教子さんの歌集『光を恋ひて』を紹介したので、「台湾
歌壇」のことをその設立経緯から知っていただくには最適と思い、ここにご紹介する次第
だ。

 タイトルの「台湾歌壇と呉建堂」は、編集部が付したものであることをお断りする。

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日本語のすでに滅びし国に住み短歌(うた)詠み継げる人や幾人
                           孤蓬万里(『台湾万葉集』)

 この和歌の作者の氏名を見ずに和歌だけを読んだ読者は、ほとんどが「ああ、この歌は
外国の人が外国で詠んだ歌だなあ」と思ふに違ひない。

 今、日本以外で三十一文字の和歌を日本語で詠む国はいくつあるだらうか。ブラジル、
台湾、韓国……。ポーランドでは大学の日本語学部で詠んでゐるさうで、フランスには日
本の先生方によるフランス語訳の名作があり、アフリカの人々の心を打つやうな作品を、
台湾の歌人達も感動して拝読したことがある。

 さう、冒頭の歌は台湾の「台湾歌壇」の創始者、孤蓬万里こと呉建堂氏の詠まれた歌
だ。

 呉氏は戦前、台北の旧制台北高等学校理乙に在学中、『万葉集』に魅せられて医学と文
学の二足わらじ(呉氏自称)を履いて半世紀を過ごされた方である。呉氏の経歴を簡単に
述べると、1926年(大正15年)台北生れ、台北帝大医学部卒、熊本大学医学部博士、剣道8
段、第3回世界剣道選手権個人3位(1976年)、『台湾万葉集』で菊池寛賞受賞(1996
年)、宮中歌会始御陪聴に招かれる(1996年)等であるが、1998年に帰幽された。

 呉氏は終戦後もずつと和歌の勉強をしてゐた。そして、数人の同好の人々とひそかに和
歌の勉強会をやつてゐた。当時、おおつぴらに、殊に日本語の勉強会等はとても出来ない
時代になつてゐた。時が経つにつれだんだん緩やかになり、漸く和歌が作られるやうにな
つて初めて「台北歌壇」を同好の士11人で立ち上げた(「台湾」と云ふ名称は未だタブー
であった)。1967年のことである。

 大正二桁、昭和一桁生れの台湾人は、生れながらの日本人で、国語で物を書き、国語で
思索し、果ては寝言までが国語だつた、所謂「日本語族」である。その人々が日本の短詩
型文化にとりつかれて会を作り、和歌を楽しむことは常態である。また歴史的仮名遣ひを
用ひ、日本語の文語で和歌を詠むといふことは極く自然なことであらう。

 終戦から66年、「台湾歌壇」の前身「台北歌壇」が成立してから44年、1968年に台北歌
壇歌誌第1集発行から通算152集、この44年来の投詠者は500人にのぼる。

 現在、会員は100人弱であるが、若い会員の吸収に努力してをり、平均年齢もだんだん若
くなつてゐる。この歌人達が万葉の調を大事にして詠作を続けてゐるのは、呉氏の「万葉
の流れこの地に留めむと生命(いのち)のかぎり短歌(うた)詠みゆかむ」の遺詠の影響
大なることは否めない。

 呉氏の1996年の宮中歌会始に招かれた時に作られた歌2首書き添へて筆を擱く。

  宮中の歌会始に招かれて日本皇室の重さを思ふ

  国思ひ背の君思ふ皇后の御歌に深く心打たるる

 尚、本年3月11日の東日本大震災に際して台湾の人々が非常に関心を持ち、救援物資、義
捐金等を送つて嘗ての日本の同胞から感謝されてゐることもさることながら、66年来、す
でに異国になつてゐる台湾の人々の大震災に際して詠んだ和歌も、日本の人々の感動を誘
つてゐる事実を書き留めておきたい。

  国難の地震と津波に襲はるる祖国護れと若人励ます  蔡 焜燦

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